夏が過ぎ、秋が来て冬になる。木枯らしに吹かれた後はビールより熱燗ってのが、世間でいうところの本寸法なのだろうと勝手に解釈して、ものは試し、熱燗ってものをなめてみようと無謀にも考えた。数ある酒の種類のうち日本酒だけは何があっても避けてきたのに、である。
ごく若い頃職場の先輩に無理矢理飲まされた日本酒の臭いにおいが記憶にこびりついていた。だらしなく酔っ払ってクダを巻くおやじの体臭を思わせる、安っぽく品のないただ不快でしかないにおいだった。それ以来、日本酒と聞くだけで吐き気をもよおした。
誰から強いられたわけでもなく、自ら湧き上がる好奇心ほど新たな一歩を踏み出させる原動力となるものはない。全国どこにでもあるチェーン店の居酒屋のカウンターに座るなり、熱燗一本と焼き魚を注文した。徳利とぐい呑みはすぐに運ばれてきた。首をつまんでとくとくと注いだ。鼻の先にもってくると、どういうわけか昔感じたあの嫌なにおいがしなかった。ぐい呑みを傾けると口の中にほどよい熱さと辛さがしみ込んできて、喉を柔らかく押し広げながら通り抜けていく。一つ大きく息を吐くと、一歩遅れて内側から香りがやってきて鼻の先へ抜ける。においは外から鼻の中へ入っていくばかりではないのだと気づいた。焼き魚をつつきながら一合の徳利を空にすると、大いに満足して店を後にした。
それ以降、一口に日本酒といっても銘柄によって味も香りもまちまちであることがわかるようになった。昔飲まされた日本酒はきっと、得体の知れない安物だったに違いない。それでなければあのおぞましい悪臭はありえない。そう結論づけて、どうせ飲むなら本当にうまいと思えるものを自分で見つけて飲もうと決めた。
腰を据えて本気で飲んだところでせいぜい二合が関の山、それ以上は喉も体も受け付けない。味も香りも楽しめなくなり、ただただつらいばかりになるからだ。ましてや、酒でかまどがひっくり返るほど毎晩のみ暮らすわけでもない。少しばかり値は張っても、うまいものをちょっとだけというのが自分のスタイルになった。
そうこうしながら少しずつ試しているうちに、ある人が「こんな酒があるよ」と教えてくれた。「刈穂 大吟醸」である。
「飲ませてやるよ」
気前のいい申し出に、お言葉に甘えた。一升瓶1本が5000円以上するという。なかなかの値段だ。
「これは冷やで飲むものだよ」
そう言いながらコップを突き出してきた。両手にコップをおしいただいて、一升瓶から注がれるのをじっと眺めていた。色は透き通っているのだが、水のようではなくて、どことなくトロリとしているように見える。コップから立ち上る香りが凜としていた。口に含み、喉を通るとき驚いた。からりとして輪郭のはっきりした辛さの後を追って、華やかで清涼な香りが口と言わず鼻と言わず至る所へ押し寄せてきたからだ。女性の多くはしばしばこの香りや味を「フルーティ」と称するらしい。しかしそれだけでは何かが足りない。この酒を口にすること自体が楽しくなり、飲んでいる自分が好ましく思える、そんなうれしさをもたらすのだ。
来年のことを話してもあながち鬼も笑わないだろう時期にさしかかった今、2013年はこの酒で迎えようと考えている。楽しい出来事と好ましい自分に出会える新年を、お気に入りの酒器とともに。
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